かぴこと子かぴの徒然日記

読んだ本など徒然なるママの隣で蜩が鳴いているカナカナカナカナ?

春はあげぽよ~

枕草子
中宮定子(一条帝の中宮)に仕えた清少納言の手によって書かれた随筆文学。
平安時代中期の作品。

んなこたぁ知ってんだよ!という人も多いと思います。ええ、奇遇ですね、私も知ってます。
さて。この清少納言。まぁ有名な人ですよね。
紫式部のライバルだという説もあったり、平安時代のキラキラOLという説もあったり。
私も大好きです。紫式部と並ぶレベルで大好きです。

まず、書き出しが素晴らしい。

春はあけぼの。

今でこそ、一般的に使われる『あけぼの』という表現ですが、平安時代、少なくともこの清少納言の時代あたりまでは、あまり一般的な言葉ではありませんでした。
言葉としてはあったんだと思います。でも、万葉集古今和歌集など、枕草子が書かれた当時の王道ともいえる作品には『あけぼの』という表現は出てきません。
しかも、「春は」。現代語訳(するまでもないですが、あえて)するなら、「春と言えば…」という書き出しで、和歌なら季語である梅や桜、鶯の初鳴き、雪解けや春霞がくるのが常識なのにもかかわらず、あけぼの。夜が明け、東の空がほのかに明るんでくる状態…そんなん一年中みられるじゃないですか。

でもですね、これに続くのが

「やうやう白くなり行く山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」

なんです。
あけぼのじゃなくちゃいけない理由がここにあります。

春は
生命の息吹を感じる春。
新たな希望の幕開けである春。

あけぼの
長く暗い夜が明け、うっすらと日が差し始める時間。

やうやう白くなり行く山際
この山はおそらく、平安京の東に位置する鳥辺野。
中宮定子の墓がある方角。

少し明かりて紫立ちたる雲の細くたなびきたる
紫立ちたる雲とは紫雲ですね。枕草子が書かれた時代、紫雲といえば中宮のことでした。そして、枕草子の作者、清少納言にとって中宮と言えば中宮定子ただひとり。

もうひとつ。
定子は第二皇女である媄子内親王を産んだ直後、後産のなか24歳の若さで亡くなっています。また、定子はこの出産に当たって辞世の句を三つ、几帳のそばに結び付けていたとも言われているのですが、この歌のひとつは

煙とも 雲ともならぬ 身なれども 草葉の露を それとながめよ

これを知ると、「春はあけぼの」でなくてはいけない理由、そして続く言葉が「やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる」となる理由が読めてくるように思います。

本当のところはわかりませんけどね。
もしかしたら、清少納言はそんなことを考えず、ただ「あー、春っていったら明け方っしょ~。もうサイコー。定子様、そう思わなーい?」くらいの気持ちで書いたのかもしれませんし。
そもそも、この章から書き始めたのかどうかすらわかっていないので、真実は闇の中です。

私は古典も現代小説も大好きなんですが、どんな作品を読むときでもまずは文章を深く読み込むのが大事だということは変わりありません。そうすることで、描かれている文脈や登場人物の意思、言葉の意味を汲み取り、理解することができるからです。
ただ、ただね。時には文章から一歩離れて、その作品が成立した環境や作者の人間関係に目を向けてみることも大切なんじゃないかなと思うのです。背景を知ることで、作品から垣間見える作者の意思や意図がいっそう輝いて見えるから。
それが「読み物」を楽しむ醍醐味だと思うんですよね。

枕草子清少納言は、さんざん「定子様可愛い」「定子様尊い」「定子様最高」と唱えてます。
もちろん原文で「定子様可愛い」とは書いてありません。でも、中宮定子と清少納言の関係性を知ったうえで読むと…やっぱりそのものずばり語ってるとしか思えないんですよ…。

 

ここからすこしマニアックになるので、興味ない人は読み飛ばしてください。
…すでにマニアックじゃないかというツッコミは受け付けません。

中宮定子の父親は関白内大臣正二位である藤原道隆です。そして叔父には「この世をば わが世とぞ思う望月の 欠けたることもなしと思へば」と歌った藤原道長がいます。
道隆からはじまる藤原一族は、当時絶大なる栄華を極めていました。しかし、道隆の死後、定子にとっては叔父にあたる道長の策略によって没落の一途をたどります。
まず、道長は自分の娘(つまり定子の従姉妹)である彰子を一条帝の正妻に据えます。日本史の授業でも出てきますね『二后並立』ってやつです。
さらに、定子が出産のため宿下がり(今でいう里帰り)しているさなか、定子の兄である伊周が花山法皇(一条帝の前の帝)に、痴情のもつれから矢を射ってしまい大宰府に左遷されます。
この時、伊周を捕縛するために検非違使が屋敷に踏み込んでくる姿を目撃した定子は、自ら鋏で髪の毛を切り落とし、出家してしまいます。そして出家したまま、一条帝の第一子、脩子内親王を出産します。
この落飾事件は長徳元年(995年)の4月~5月の初旬のこと。同年夏には住んでいた二条宮が全焼、10月には定子の母である貴子が他界するなど、本当に本当に、ついてないというかなんというか…。不幸は続くもんなんですね。

枕草子が書かれ始めたのは、この事件の翌年、996年ごろと言われています。
原本はどうやら残されていないため、現在読めるものはすべて写本になります。そのため、どの巻から書き始められたのか、実際に清少納言が書いた枕草子がどのようなものであったのかは分かりません。江戸時代中期まで、日本には印刷技術はありませんでしたから(正確には、仏教の経典などを広めるための技術はあったようですが、一般的ではありませんでした)、人が書き写すしかなかったわけです。書き写し書き写ししているうちに、独自解釈が入ったり、書き損じたまま書き換えられたりしてしまうのが古典では一般的なことでした。

清少納言は、おおよそ7年間、中宮定子に仕えています。定子が亡くなったあとはすぐに宮中を去るのですが、それからなくなるまでの約25年(推定です)、宮中とかかわりがなかったかというと、そうではないんですよね。中宮彰子に仕えていた赤染衛門和泉式部などとは文を交わしていたようです。
中宮彰子付きの女房と言えば紫式部紫式部清少納言は犬猿の仲、という説も残っています。たぶん、紫式部日記でけっちょんけっちょんに言ってるからじゃないかと…。
あと、彰子の父である道長にしてみれば、定子付きの女房だった清少納言はいわば敵側。わざと紫式部に悪く書かせたんじゃないかという説もあるそうで…。

紫式部紫式部日記を書き始めたのと、清少納言枕草子の加筆を終えたのはほぼ同時期だと言われています。和泉式部日記によれば、そのころも(紫式部日記が書かれていたころも)、清少納言は彰子付きの女房たちと交流があったと。
…これはあくまで推測なんですが、清少納言紫式部が自分の悪口を書いていたことを知っていたんじゃないかなぁ…。

おおっと、これ以上、定子と彰子、清少納言紫式部の関係性について書いていくととんでもない長さになるので、今回はこの辺で…。

またそのうち、折を見て隙をみて!
清少納言紫式部の変態性について語っていきたいと思います…。

ところで私、枕草子では以下の段が大好きです…。

 

十八、九ばかりの人の 髪いとうるはしくて、丈ばかりに、裾いとふさやかなる、いとよう肥えて、いみじう色白う、顔愛敬づき、よしと見ゆるが、歯をいみじう病みて額髪もしとどに泣き濡らし、乱れかかるも知らず、面もいと赤くて、おさへて居たるこそ、いとをかしけれ

 

…大好きです。フェチだだ洩れしてるあたりがとっても大好きです!

 

参考文献

枕草子(上) (講談社学術文庫)

枕草子(中) (講談社学術文庫)

枕草子(下) (講談社学術文庫)

NHK「100分de名著」ブックス 清少納言 枕草子 (NHK「100分 de 名著」ブックス)

超訳百人一首 うた恋い。3 (コミックエッセイ)

[まとめ買い] 姫のためなら死ねる(バンブーコミックス WINセレクション)

清少納言と紫式部―その対比論序説